お寺ネットで寄せられた相談です。
空について
写経の一年生です。
【空】についてある人に相談したところ「空=つまり何も無い。あらゆる有が無から出発し終局的には無に帰着する」という解釈を得ました。
しかしこの解釈には違和感がありました。
無が出発点だとしたなら有が生まれる余地はないし、世の全てが虚無なら虚しさしか残らないと思ったからです。
そして今朝、ある仏教者の本を読んでいたところ、【空】とは何も存在しない(皆無)という意味ではなく、あらゆる形(有)を成す素材の存在する温床的な世界の総称であるというような解釈を得ました。
【真如】という言葉でも言い表されるようなのですが、【空】とはつまり、何も無い、皆無・虚無ではないという解釈で正しいのでしょうか?詳しく教えていただければ幸いです。
一般人さんより
空が無であるという解釈は間違えであると、よく言われているところだと思います。
無であるという解釈をする方に私は出会ったことはないですが、まだいらっしゃるんですね。
貴重な存在にすら思います。
空はゼロに似ているという人もいます。
ゼロは、何もないのではなくて、すべての数を含有していて無ではないのだと。
間違ってたらすみませんが、そんな感じの解釈だったと思います。
無になりきれと、禅ではよく言われるところでもあります。
が、からっぽの中身のない人間になれといっているのではなく、ごちゃごちゃと自分で作った概念を離れろとか、くだらないことを考えるのをやめろとか、そんな意味あいの模様です。
空が本当に理解できれば悟りだという方もいます。空を理解し体得に至るには、それなりの時間が必要なのだろうと思います。
仏教徒さんより
【空】の読み方には『そら』もあります。
『そら』は無限に広がり、宇宙ともつながっています。
宇宙は一見、何も無い空間にも見えますが、実際はいろんな星や物質に満ち溢れているんですねぇ。
つまり、【空】も無いように見えて実は在るものなのです。
すべては心の働きによるもので、在ると認識すれば在り、認識しなければ無いのです。
電車に乗って満員だと空いているイスは無いのですが、実際にはイス自体は存在するわけです。
お酒を飲んで中身が空になってもビン自体は存在するのです。
夢中になっていて気付かなかったけど、実はもう1時間経っていたりするのです。
仏教は『心』を重視します。
【空】は心の作用を表すためのもので、「気付けば在り、気付かなければ無い」、「在るのだけど無い、無いのだけど在る」というものなのですね。
ややこしいかなァ・・。(苦笑)
天台沙門さんから
Q:【空】とはつまり、何も無い、皆無・虚無ではないという解釈で正しいのでしょうか?
A:「空」≠「虚無」で正解です。
中村元『仏教語大辞典』によりますと、
【空】くう (1)うつろ。原語śūnyaは、ふくれ上がって中がうつろなことの意。
転じて、無い、欠けた。またśūnyaはインド数学では零を意味する。
(2)もろもろの事物は因縁によって生じたものであって、固定的実体がないということ。縁起しているということ。……(後略)
と、あります。
原語に「虚ろ」という意味があるうえに、「固定した実体がない」という表現が「物質的実在がない」と誤解されてしまい、「空とは何も無いことで、皆無・虚無といってよい」という通俗的理解が生じたのですね。
すべての事物は、直接的原因を示す「因」と間接的原因や環境を示す「縁」によって発生しているから、関係性を離れたところで事物の存在を云々しても意味がない(関係性を吟味せねば意味がない)、ということが「空」という言葉の哲学的意味です。
なお、私は実践倫理としての「空」を「先入観から自由になれ」と理解しております。
〈余談〉
仏教の術語である「空」を「無」と表現する時代は仏教史的には2度ある。
初めは、仏教が中国に伝来した「格義仏教」と呼ばれる時代である。仏教の「śūnya」と道教の「無」が同じであると考え「śūnya=無」と翻訳した時代だが、śūnyaと無との相違が明らかになると「空」という訳語が確定した。
次いで、中国で禅宗が勃興した時代に「空」をあえて「無」と表現して以降である。これは、環境(=色)内部における「固定した実体」を否定するのみならず、認識主体たる自分という「固定した実体」をも含めて否定するために、「無」という術語を使ったと理解してよい。